平成17年4月から平成19年3月まで、宇和島地方局(現南予地方局)に勤務のため、宇和島市に居を構えました。もう、11年前のことになりますが、数々の楽しい思い出はつい先日の様な気がします。有難いことに、私のために撮影をして頂いた当時の写真があります。伊能忠敬の足跡を楽しく巡る会四国支部も第2章が始まりますが、これからは、主に、未訪問の全国の県庁や市町村へバイクツーリングをして参ります。出発に当たり、撮影をされた方々に感謝の意を込めて、ホームページで披露させて頂きたいと存じます。これらの写真が力強い支援となることは、申すまでもありません。










かどや清家会長と 岩松川河川敷










宇和海の守護神宇和島海上保安部





愛犬が17歳で亡くなられたとのことです。

伊藤さんが育てられたカトレア「メモリア・クリスピン・ロザレス」
伊藤さんが育てられたテントロビューム「スノーフレーク」


伊藤さんが育てられたカトレア「リトル・プリンセス」
海技大学校に勤務をされているとのことです。
伊藤さんが育てられたミニカトレア「エンジェルソング・ララ」
今年は、牛鬼祭りも開催されました。

宇和海を創り育てる男たち
宇和島地方局水産課(現南予地方局)
戸島などに案内を案内して頂きました。


みかん研究所棟上げ式 お盆のような大きなもちを撒かせて頂きました。





山内さんさらにバージョンアップされて活躍のようです。
時代の大きな変革期、正しい情報が大切ですね。

地域とともに歩む
宇和島地方局(現南予地方局)林業課
国、県、市町村、民間との連携

山内さんと話すようになったのは、宇和島じゃこ天で地域活性化を考えていた、私が、伊予銀行合唱団が、南予文化会館で定期発表会をするとの情報を得、それではその時間をお借りし、宇和島地方局職員による宇和島じゃこ天の歌でパフォーマンスをしたいと考えていたのがきっかけです。元宇和島市民合唱団の指揮者をされていた山内さんに面倒を見て頂こうと、来て頂きました。山内さんは、宇和島男子らしく、寡黙で派手なことが好みでないようで、なかなか頷いて頂けませんでした。なんとか、説得をして、地方局職員による宇和島じゃこ天の歌が、合唱されました。多分、このことは、宇和島じゃこ天の歌が、ステージで初めて歌われた画期的なことだったと思います。
それから、話を交わすようになり、私が、鬼ヶ城山系が、好きで、バイクツーリングをしていると話していたのを、心の中に留めて頂いていたのでしょう。南予アルプスと呼称するパンフレットの案を持参されました。パンフレットは、国、県、市町村、民間が連携し、作成するとのことでした。すばらしい案なので、「折角だから、記念になるように、表紙は、山内さんが、自分で撮影したら。」と返答をしました。それからかなりの期間がありました。「これで行きます。」と、検討されたパンフレット案を再度持参されました。見て驚きました。以前のものとはうってかわって、野草を春、夏、秋、冬と区分をされるなど、見て楽しいものになっていました。山内さんは、説明をされました。写真は、山岳会の方々から誠に貴重なものですが、提出を頂きました。表紙は、宇和島市役所に航空写真がありましたので、使わせて頂きました。この、素晴らしいパンフレットは、後に私が、松山観光港ターミナルに勤務時に置かせて頂きましたが、乗客の人気度は常にNO3に入っていました。
私は、宇和島にいたとき、心配をされた、市民の方から、お話を頂きました。
「この地域では、旗を振ると嫌われますよ。」。また、「持ち上げて、どっと落とされますよ。」。それでも、行動を重ねることで、結果信頼を得ることに成りました。山内さんは、地元の方ですから、この事を知らないはずはないのに、旗を振って、国、県、市町村、民間をまとめパンフレットを作成されました。これがきっかけとなったのか、目覚めたかのように、ずっと地域と連携をされ、行動をし、今日に至りました。山内さんが、あの当時の思いをずっと続けて頂いているのは、私にとってこの上ない喜びであります。この生き方は、県庁を卒業され、新たな未来へ向かう時、何ものにも代えがたい宝物となるでしょう。


















西条県事務所三島出張所(現在廃止)に新採時、配属された時の先輩です。遠路四国中央市から、訪ねて来られました。歴史好きの先輩から、新居浜市の瑞應寺の住職さんの話や旧廣瀬邸の話をして頂いていました。その時、良く穂積陳重の話もされていました。それで、ほずみ橋を案内すると、大変喜んで頂きました。真昼時なのでもう閉店していましたが、うどんやまこに案内をすると、興味深そうに見て回られました。そして、お寺通りなどを案内しましたが、歴史大好きの先輩は大変満足をされたご様子でした。体を壊されていたため、禁酒をされていましたが、宇和島じゃこ天を望まれましたので、その時間帯に幸い開いていたとみやさんに入りました。すると「四之宮君、冷やで一杯だけ飲ましてくれ。」と所望されましたので、升酒をお願いすると、出された、升酒をゴックンと飲まれ「美味いなー。」と言われた笑顔が、今も焼き付いています。 思い出は、出納閉鎖の税徴収の追い込みの時、豪雨で、私の眼鏡が水滴で曇って見えなくなり、動けなくなりました。すると「わしにまかせておけ。」と四国中央市川之江の川滝まで代わりに行って頂きました。それと、独身だろうと良く自宅に泊めさせて頂き、朝食に温かい味噌汁をご馳走になりました。四国中央市のおでん德若、西条市の赤丹で良く議論したのも懐かしい思い出です。四国中央市を離れた後も良くお訪ねをしましたが、お土産に頂く、青木かまぼこさんの海老竹輪は、絶品でした。それと、宇和島地方局に赴任し、部屋に入り椅子に腰をかけようとすると画が目に入りました。なにかと思い手に取ると、先輩からの祝電でした。そこには、ご栄転おめでとございます。第一次産業のかさあげ、人物を輩出する土壌。健康に留意し、ご活躍を祈ります。と宇和島を的確に捉えられた文面でした。思いがけない出来事に驚き、感激し、闘志が湧いて来たのを覚えています。
ある年、いつも頂いている賀状が来ないので、心配になり、奥様に電話をすると、危篤状態でもう長くはないと、医師に言われていると答えられました。それでは、見舞いに参りますと言うと、「来て頂いても、意識がないので分からないと思います。」と答えがありましたが、翌日、四国中央市の病院に見舞いに行きました。完全看護の病院でしたので、看護室に了解を得て、病室に行きました。目を覚ますことなくずっと寝ておられましたのでしばらく病室にいましたが、おいとまをするとき、額にてをあてて「元気になって下さい。」と心の中で言い、部屋を出ました。ちなみに、病状悪化のため目は見えないと奥様に言われていました 。翌日、奥様から、御礼の電話があり、驚いたような声で「行くと、主人が、今、四之宮君が見舞いに来てくれた。と大変喜んだ。」と話されました。どうして分かったのでしょうかと私も驚くとともに感激をしました。いつも私の県庁の行く末を心配して頂いていましたが、それほどまでにと思いやりの深さに、心が震えました。















100人の士 宇和島ガイヤカーニバル 宇和島地方局(現南予地方局)

宇和島地方局のみなさんの熱気溢れるパフォーマンスは、宇和島市民の方々の目に強く焼き付くことになりました。高揚感に溢れ、宿舎に帰っていると、宇和島市役所牛鬼保存会楠葉会長に出会いました。楠葉さんから「本当に良かったですね。」とお祝いの言葉を頂きました。彼は、その後ふとつぶやきました。「地方局でもやれるんだな。」。多分当時公務員がこのようなパフォーマンスをすることが信じられなかったのだと思います。ちなみに、翌年の宇和島市役所のガイヤカーニバルの踊りは一変し、迫力のあるものに、なっていました。私は、地方局の姿を見て頂くことによって、市民の皆さんの信頼を得、次の、イベント、ゼロ予算の宇和島じゃこ天カーニバルへと突き進むこととなりました。















かどや弁天町店において、送別会を開いて頂きました。そうそうたる宇和島各界のメンバーです。これらの方々の知己を得、支援を頂くことによって、幸せにも私の思いを次々と実現することが出来ました。このほか、山本公一先生、宇和島選出県議会議員の皆様、浅田議長(当時)を始めとする、党派を超えた宇和島市議会の皆様、無名会、宇和島地方局各部などから、次々と送別会を開催して頂きました。ここに改めて厚く御礼を申し上げます。振り返ると、本当に皆様に、様々な分野において、ご配慮を頂いたのだなと、しみみじみと感じ入った次第です。

今日でお別れです。 宇和島市を出発します。 4月1日が休日のため、定年退職日の翌日公舎を出ることとした。出発日の早朝、ブザーが突然に鳴った。どなたかと、玄関に出ると、かどや清家会長であった。お別れに来ましたと、土産を差し出された。恐縮をしたが、妻と一緒にお礼を述べ、有りがたく頂くこととした。松山に帰り、包みをを開けると、そこには、私の近所の分を含めた思われる数分の土産品があった。「清家会長さんらしい、すごい配慮ですね。」と、妻もただただ驚くばかりであった。ここで、明らかにしておきたいが、現役の時、かどやと清家会長に便宜を図ったことはない。また、個人的にもかどやを利用させて頂いたことは、余りない。それは、清家会長にお願いをし、活動をすることが、あったからだ。目的を達成するためには、癒着と思われると、そこを指弾され、実現出来なくなる。私は、現役の時代、共に行動して頂く方には、便宜を図らないよう気を付けた。逆に、そう言う思惑で近づく人は、信用出来ない。今治西高校3人会の冨田君や羽藤君には、私が不器用だった為、助けて頂いた事は、多い。だからと言って、私は、彼らに便宜を図ったことは、一度も無い。そういう背景での、清家会長のこころづかいである。しばらくするとまた、ブザーが鳴った。利用させて頂いていた、山下クリーニング店のご主人であった。「今日、松山に帰っても、食べるものが無く、お困りでしょう。」と、お別れのあいさつと、てづくりの弁当を頂いた。山下さんは、宇和島男性そのものと言える温かみがあり木訥な方である。奥様は、妻にいわせると、習い事を両手に余るほどされ、何でも出来る方だと感心をしていた。ご夫妻とは、親しくお付き合いをさせて頂き感謝をしている。今もお元気であろうか。私は、宇和島に赴任をするとき、言われた。あちらの風土として、今日約束をしたことが、明日は破られていますよ、と。しかし、私は、こと宇和島市においては、した約束を破られたことは一度もない。きっと、伊達文化が、背景には、あると思う。その、証が、市民の多くの方々と交わした約束の実現、ゼロ予算の宇和島じゃこ天カーニバルである。


平成17年4月初めての赴任地宇和島市に居を構えることとなった。JR宇和島駅前の花壇の花々が、色鮮やかできれいだなと思ったのが、第一印象である。後でお聞きすると市民グループの方々が、お世話をしているとのことであった。

住んでみると、バイクツーリングで感じていた、何も無いところだとの印象が、直ぐに変わった。日常生活の中に昔ながらのものが存在し、元気に息づいていることに気が付いた。宇和島城をはじめとする、伊達文化の史跡もある。そして、伊達文化の影響か、一家言持った、一筋縄ではいかない、(言い換えれば人材が豊富)住民の方々が多いと言うことも知ることとなった。
このことから、赴任してすぐ、この地は、自分に取って、県庁生活の締めくくりにふさわしい地だと確信をした。
胸がわくわくし、地域活性化へ向けての思いがふつふつと湧いて来た。そして、確信は強い自信へと昇華した。それはと、問われると、それまでの県庁生活にあると言う外は無い。
私は、県庁生活38年の間で、異動の希望は2度しか、職員課に出したことが無い。幸い、一度は希望が叶い、秘書広報課から、市町村課に異動することが出来た。後は、全て職員課の人事に従い、異動を重ねた。それは、全て、私の予想と異なるところであった。それも、常に経験の無い新しい分野、新しい事業を創造するところであった。私は、事務能力も余りなく、他の方と比し、特段優れたところは無い。しかし、職員課の人事異動によって、有難いことにキャリアアップと新しいことを進めていくノウハウを身につけさせて頂いた。深く感謝をしている。お陰様でこれに関しては、誰にも負けない、と不遜と思われるかも知れないが、自負をするようになった。
この身に付かせて頂いた、能力を生かさなければもったいないとも思っていた。
新しいことに取り組むには、まず、困難に直面しても、逃げない人材を見出すことが欠かせない。
そういう人材は、多くない。自己保身を図って、平気でうそをつくし、尤もらしい理屈を述べ、主義主張を変えるか、関係ないと黙り込む。
それは、今治市の獣医学部設置の推移を見ても明らかであろう。新しいことを進めようとすれば、この縮図は至る所で起こる。単純に、正しいことであれば実現が可能とはならないのである。
話は、元に戻るが、一家言持った方は、一度決意すれば、簡単に逃亡しないことも、経験上分かっていた。
更に、宇和島は事業推進に欠かせない、バックボーンとなる歴史、文化、自然が実に豊かである。
幸運とも言える、自己実現の舞台が正に、眼前に揃ったのである。
先輩の方から「四之宮さんは、宇和島では、やりたい放題だったからね。」と言われた。また、同僚からも同趣旨の話があった。
実は、行動に当たっては、私は、慎重である。実現可能と確信するまでは、人を巻き込まない。見通しもなく、やりたい放題すれば、当たり前だが、自滅の道しか待っていない。有りがたいことに、かどや清家会長に「四之宮さんは、事を進めるに実に、緻密だね。」と言って頂いたこととがある。
そして、運も無ければならない。
図らずも、先般叙勲の栄に浴したが、共に受章された、丹生谷さん(名前を出してご免なさい。)「受章出来たのは運ですね。人との出会いの運ですね。」としみじみと語っておられました。私も、全く同感です。振り返れば、様々な出来事がありましたが、いくら私が、人と群れるのを好まないと言っても、一人ではなにも出来ません。
困難に遭遇しても、最後まで支えて頂いた、県民各位、各界の皆様、部下、同僚、上司などに恵まれたからこそと言えます。
そして、宇和島での2年間でやりたい放題とも言われる自己実現を次々と図ることことが出来たのは、国、地方、団体などで改革を進められた加戸前愛媛県知事さんの元で働けた大運であり、私のこのようなやり方を温かく包み込んで頂いた個性豊かな宇和島市民の皆様、宇和島地方局の皆さんに出会えた幸運であることは申すまでも有りません。
思い出の宇和島市に沢山の様々なブログなどがリンクを頂いております。宇和島の素顔が拝見でき、誠に楽しく一見の価値があります。
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この度の未曾有の集中豪雨による被害を心からお見舞い申し上げますとともに早期復興をお祈り致します。
平成30年7月